シースルー型HMDを用いた社会福祉学的アプローチに基づく“視線恐怖症的コミュ障”支援システムの開発

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review comment 1
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■ 総合点
3
■ 確信度
2
■ 査読コメント
コミュ障という課題をHMD上の画像処理によって解決するという提案は、メガネ型デバイスが今後大きく発展すると想定される状況の中で、ある程度興味深いと考える。しかし、解決策としては、社会福祉学の理論に基づくものであるとは言え、「モザイクをかける」「急に電話がかかってきたことにする」など比較的容易に思いつくものを組み合わせたものであり、各手法のさらなる掘り下げを期待したい。顔であっても、相手の視線そのものが当人の負担になる場合や、相手がこちらを見ているという自意識だけで負担になってしまう場合など、複数のケースがあると思うので、それらについても論じてほしい。全体としては、コミュ障という課題に対し、HMD応用による将来の人間補助の可能性を提示した点を評価するが、思いつきのレベルを超えていない点がいま一歩と考える。
■ レビューサマリー
各査読者が指摘している通り、用語や記述については改善すべき点がありますので、一部見直しをよろしくお願いします。
全体としては、問題設定、アプローチに新規性があり、興味深い論文です。



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■ 総合点
5
■ 確信度
2
■ 査読コメント
論文自体の記述の質,正確性は高いです。また問題設定とそのアプローチには一定の新規性を感じますし,対人コミュニケーションにおける対称性をコントロールする研究分野の広がりも期待できます。

有用性については,現状の論文では不十分で不明確です。ただし,シンポジウムでの議論をもとに評価実験や運用を行っていくことで,提案アプローチの意義が明確になっていくものとおもわれます。
HMDをつけるユーザの主観評価による有用性議論だけではなく,そのユーザと対話するコミュニケーション相手がどのように感じるかや,話しやすいかといった観点でも議論すべきでしょう。
全般的に,本論文ではHMDをつけるユーザ中心の議論に偏っているようにおもいます。

一般的に,対話時に顔を見る理由としては「自分が話している内容について,相手がどのように
うけとめているかを理解する」必要があり,そのほうが適切な対話に修正しやすいからです。
もしユーザに,コミュニケーション相手の顔を隠すのであれば,別の手段で相手の状況を伝達する
必要がでてくるとおもいます。
また,将来HMDが小型化するなど,システムの利用がコミュニケーション相手側から観測できなく
なったときに,コミュニケーション相手側がユーザのシステム利用の有無を意識する必要がなく,また
ユーザ側への特別の配慮を必要としなくなるのが最終目標になるかとおもいます。



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■ 総合点
4
■ 確信度
2
■ 査読コメント
新規性、有用性は高いと感じました。デモビデオを見る限り、実装に関しても問題を感じず、技術的な正確性も問題ないと感じました。また、障碍(障がい)者の生活支援に関して、情報処理技術・インタラクション技術・デバイスを駆使するアプローチは、これまでにない新しい道を切り開く可能性があり、社会的な貢献でもあると感じます。

以上が主な評点の根拠ですが、一方で、論文をより良くする改善すべき箇所も多いと感じますので、以下に示します。

・本研究の目的(何を最終的に支援したいのか)に不明瞭な点があると感じます。
すなわち、
(1) このシステムは装着者が、いつかHMDをつけなくても良くなることを目指しているのか
(2) 装着しながら生活することで、自分の心が安らかに生活できるものなのか
(3) 装着しながら生活することで、(会話相手に自然に接することで)会話相手の気分を損ねないようにするのか
という3種類の目的があるように感じますが、そもそもそれで正しいのか、だとするとそれぞれはどのように解決されたのかが不明瞭です。

本システムの機能からは、上記の全てを解決しようとしているように感じます。特に、第5章において装着者の使用感が分かり、そういう意味では、上記(1)と(2)に関して一部の解決があったのではと理解しました。
しかし、コミュニケーションを支援する上で (3) 、つまり相手の気持ちは重要だと思うのですが、会話相手がどう思うのかが分かりませんでした。

ところで、シースルー型HMDを装着している人の視線は相手に見えるのでしょうか?
それが相手に見えるのかどうかで、今回のシステムの使い勝手も変わってくると思います。
例えば、視線が相手から見えるならば、提案した各種機能が相手にとってどう働いたかの使用感は得られそうです。
逆に、相手から視線が見えないのであれば、例えば、モザイクをかける機能は上記(3)に関しては、少なくとも不要に感じます((2)には関係すると思います)。

・「コミュ障」という単語を用いることが、学術論文として不適切なのではないかと感じました。なぜなら、著者が文末脚注(i)で述べているように、それが正しい用法ではない(と査読者も思う)からです。学術論文として記述するならば、正式名称を用いて論ずるべきだと考えます。その際、もし、この「視線恐怖症的コミュ障」を適切に示す用語が存在しないのであれば、一般的に蔑称として捉えられかねない「コミュ障」という既存の単語ではなく、この状態を適切に表す単語を定義して用いるべきと思います。たとえ著者の一人が「コミュ障」だったとしても(5章冒頭より)、これが蔑称として捉えられる可能性があり、そういった観点からも不適切と感じます。この単語を、「そう呼ばれることもある」などといった補足説明として用いるのは、良いのかもしれません。

しかし一方で、“コミュ障”という表記について、ダブルクォーテーションで囲んで常に強調していることからも、俗称であることを強調した使用方法で読者に配慮し、その上でわかり易さと社会的なインパクトを狙って、あえて使用しているのかもしれないとも思います。その場合であれば、現状の記述のままでも良いようにも感じますが、その配慮が汲み取れるように、「配慮している」ことをもう少し明示的にできた方が、読者に不用意に不快感を与えずにすんで良いのではと感じました(不快感をわざと与えたい、という気持ちがある場合はその限りではないのですが)。
例えば、本文中で
「“コミュ障”は正しい用法ではないが、読みやすさと○○のために、本論文ではあえてこの表記を用いる。また正式名称ではないことを強調する目的で、ダブルクォーテーション(“”)で囲んだ上で用いる。」
(○○には例えば、(適切かはわからないのですが)「既に社会へ浸透している一般的な用語であるため」等)

最後に、本文中で略称を用いる選択をした場合でも、タイトルだけは略さずに「コミュニケーション障碍(障がい)」とした方が良いように感じます。

・一つ目の指摘と関係しますが、タイトル、特に本文では「“視線恐怖症的コミュ障”支援システム」という説明がよく使われています。これに関して「その人を支援する」というだけでなく、何を支援するのか、つまり「その人の日常生活を支援する(問題なく生活できる)」、もしくは「対人コミュニケーションを支援する(他人とより親密になる)」等、具体的に論じていただけると目的が明確になって良いのではと感じました。

・第1章第1段落において「その中でも,特に多いと思われるのは,他人と会話している時に視線を合わせることができないタイプの“コミュ障”に注目する.」など、文章が日本語として破綻している箇所が見受けられます。全体的に推敲し直すことをおすすめします。

・最後まで読むまで文末脚注に気づけませんでした。ページ毎に脚注を用意し、脚注の記号ももう少し大きくするかスペースを空けるなど見やすくした方が良いと感じました。

・表1の様々なアプローチに関して、このいくつかを用いたのは分かるのですが、今回対象としなかったアプローチに関しても、「今回なぜ対応しなかったのか」「将来的に対応するのか」「別の方法が必要なのか」など、何らかの議論を加えていただけると、ここで全てのアプローチを列挙することに意味が出ると思います。

・2章の、「そのような研究としては岡田らによるもの [12]や池田らによるもの[13]など挙げられる.」について、これらがどういうシステムなのかを一言でも良いので説明していただければと思います(その方が読みやすい)。

・4.1節で「顔検出時にディスプレイ領域全体にモザイク処理を行う仕様に変更した.」に関して、変更したのであれば機能を説明する際にも説明が必要と感じます。
また、変更したというよりは「こういう機能を実現するために、処理速度の問題からこういう実装を行った。」ということなのではないでしょうか。

・図7の説明、例えば「もっと下を見るべし」という説明文が、HMD上に出る文字ならば問題ありませんが、論文に書く図中の説明文としては不適切と感じました。例えば、「視線を下に誘導」などではないでしょうか。


最後に、「未来ビジョン」において「消極性」の議論が書かれていますが、この議論はとても興味深く、面白いと感じました。しかし、障碍であるかどうかと、消極的であるかどうかは、話が少し違ってくると思います。つまり、積極的になりたいけどそもそも病気で無理なのか消極的でいたいのか、その二つの最終的な状態は、周りの人から見ると同じかもしれませんが、そこにかかる個々人の想いには違いがありそうな気がします。もし採択された場合、論文中、もしくは当日議論するようであれば、上記の観点にも触れていただけると良いのではと思いました。